スペック通信 3月

教室に入ってきて挨拶のあと、生徒たちはかれらが訳している物語のCDを5分ほど聴いて、次に同じ英文を音読することをルールにしています。ところがどうも最近、大きな声で音読する生徒が少なくなっているように感じています。もちろん大音量で音読されては他の生徒たちに迷惑なのですが、5分間だけ読んでいるふりをしていればいいと考えているのか、あるいは黙読しているのかは分かりませんが、きちんと声を出して読んでいる生徒が少なくなっているのは間違いありません。

 

日本語の音の数は50音表でおなじみのように50音だと考えがちですが、実は5つの母音(ア、イ、ウ、エ、オ)に子音が16あり、5×16=80の音を日本語はもっています。言語学者によっても数え方に違いがあるのですが、「ギャ」や「チャ」などが加わると約100音近くになります。それに対し英語は、これも学者によって数え方が違うのですが、母音が20、子音が24ありますので、20×24=480の音になります。ちなみに中国語はこれも数え方によるのですが、方言まで入れると軽く1000音を超えるのだそうです。

 

100の音しかもっていない日本人が480の音を聞き分けなければならないのですから、日本人にとって英語の聞き取りが難しいのは当たり前です。逆に480音をもっている英米人には日本語はとっても聞き取りやすい言葉だそうで、アメリカ人の私の友人が日本に来た時には、日本語の意味はわからないけれど、音は真似できるといって、京都の「おいでやす~」という言葉の響きを気に入ってよく真似していました。見知らぬ人と会ったときにその日本語を話すと場がなごみ、初めての人とすぐに仲良くなれるという裏技を習得していたことを思いだします。

 

将来英語を使ってコミュニケーションをとるようになるには、この480の音を聞き分ける力をつける必要がありますので、生徒たちに毎回CDを聴かせているのはそのためです。 自分で声に出せる英語の音は完璧にはほど遠くても、かなりの部分を聴きとれるようになります。

 

リスニング力を鍛えることに加えて、英語の音読にはもう一つ別のメリットがあります。音読すれば頭がよくなるのです。黙読の場合は視覚をつかって「文字を見る」→意味を理解する(ぼんやりと文字面を眺めていてはこれも怪しいですが)で終わりますが、音読すると「視覚」に加えて読んでいる文章を理解する、聴覚をつかって音として入ってきた文章を聞いて再び意味を確認する、などの作業を脳が瞬時に行うことになります。そのため脳が活性化するのです。 ついでに言うと音読すれば唇の周り筋肉や顔の表情筋を動かしますし、大きな声で発音すれば、腹筋さえ鍛えられそうです。

 

上の写真は動画を視聴しているときと音読している時、黙読している時の脳のMRI画像です。

(東北大・川島隆太教授のHPより転用)

 

左上と右上の赤い部分を比べると音読のほうがはるかに黙読より脳が活性化しているのがわかります。日本語の音読でこれだけ活性化するのですから、英語を音読しているとさらに脳が活性化します。頭がよくなるだけでなく、腹筋も鍛えられ、顔面の筋肉を動かすのでお肌や美容にもいいのであれば、こんな素晴らしいチャンスを捨てておくのはもったいないです。生徒のみなさんにはぜひとも迷惑にならないレベルの大きな声で音読することを勧めます。

 

スペック通信 2月

中2、中3の生徒たちが訳している「若草物語」。私がいつも生徒たちの訳にダメ出しをし、生徒たちが「間違ってはいません」と反論する英文の一つに「a wealthy and respected member of the community」という一節があります。マーチ家の隣に住むローレンス家の当主がどんな人なのかを説明する文の一部なのですが、ほとんどの生徒たちが「裕福で地域社会の尊敬されている一員」や「裕福で尊敬されている地域社会の一員」と訳してきます。

 

けれど私はその訳にダメ出しをします。2つの訳の何が違うのだろうと思う人もいるだろうと思いますし、学校でそう訳してもバツにはならないと思います。むしろ良い訳だと褒められるかもしれません。日本語としては問題があるわけでもありませんし、正しい日本語です。けれど英語力をつけるという意味では×なのです。

 

というのは最初にある「a」の処理のしかたです。「a」や「the」は形容詞の一番初めに置くのが英語のルールです。私は高校生の時に「かすだけしざめ」と呪文のように覚えたことばがあります。今なお頭から離れない呪文なのですが、英語の形容詞を置く順番の呪文です。英語は単語がおかれる順番が決められています。冠詞(か=athe)・数詞(す)・大小(だ)・形状(け=丸い四角いなど)・性質(し=youngkind)・材料(ざ)・名詞(め)の順に言葉を置いていくのがルールです。

 

一つの例を挙げると「a big round brown old wooden table」(大きくて丸い茶色の古いテーブル)のように英語では形容詞の順番がきちんと決まっているのです。ところが日本語にはそんなルールはなく順番はどんな順番であっても通じます。「木の丸い茶色の古いテーブル」でも「大きくて茶色の古い丸いテーブル」でも、修飾される「テーブル」さえ最後にきていればOKなのです。

 

話はもどって最初の「a wealthy and respected member of the community」の「a」はその後ろの「member」を修飾していますので、「一人の裕福で

尊敬されているメンバー」が一つのかたまりになっていることを示しています。そのかたまりを意識して英語のままに訳すなら、「地域社会の裕福で

尊敬されている一員」→のローレンス氏、と訳さなければいけないです。

日本語と英語ではルールが違います。そのルールを無視して日本語のルールで考えるような勉強のしかたではなかなか英語の上達はおぼつきません。

 

話は変わりますが、「若草物語」の原題は「Little Women」(小さな女性たち)
です。日本では明治39年に北田秋圃さんが訳し「小婦人」という題で出版されたのだそうですが、1933年のアメリカ映画「Little Women」に「若草物語」という邦題をつけて上映したのが、このタイトルが日本で知られるようになった最初のようです。

 

マーチ家の4人の女の子たちが、それぞれ個性豊かに成長していく様子を、芽を出したばかりの若芽が育っていく様子に倣って「若草物語」という邦題をつけた当時の映画の配給会社はいい仕事をしたものだと感心します。日本で上映される洋画に内容を暗示するような邦題をつけるのは配給会社の得意技なのかもしれませんが、時にはこれが外国人と映画について話すとなると問題となります。邦題をそのまま英語で言っても伝わらないのです。

 

Anna and Snow Queen」と言えば、おそらく向こうが「Oh, it’s Frozen」と想像力を働かせてくれて「アナと雪の女王」のことだとわかってくれるような気がしますが、昔の映画「旅情」などは「Emotion of traveler」では絶対に通じません。「旅情」という名作の原題は「Summer time」だからです。みなさんの知っているところでは「天使にラブソングを」の原題が「Sister Act」(修道女の演奏)、「塔の上のラプンツェル」」が「Tangle(もつれ)という原題ですので、いくら世界中でヒットした映画だといっても日本のタイトルを英語にして話そうとしても外国人には絶対にわかってもらえません。

 

外国人と話しをするときには政治や文化の話などはなかなか複雑なので、どちらかというと避けたい話題です。スポーツや娯楽、ファッションの話などがお互いに共通点も多いだろうとそんな話をすることが多いのですが、私が好きな映画の話となると、ずいぶんと苦労しました。ストーリーを話して、ようやく原題にたどりつくまでのやり取りがまるでクイズをしているようで、アメリカ人と映画の話をするのは私の中では避けるべき話題の一つだったことを思いだします。

 

 

スペック通信 1月

最近クラスで気になっていることがあります。間違いを恐れる生徒が多いということです。たとえば発語できない英単語にぶつかった場合、生徒は私に訊いてきます。「先生、この単語はなんて読むのですか?」「間違っていいから、発語してごらん。」と私が言ってもその生徒は無言のままです。放っておくとずっとそのままになって、凍りついてしまうのです。

 

たとえ間違った読み方であっても、まず自分で口に出して読んでみてほしいのです。その上で読み方が違っていれば、私は正しい読み方を教えます。ところが、実際に発音させてみると正しく読めている場合が多いのです。

 

間違っていたのなら何が間違っていたのかをきちんと把握して、そのうえで正しいものをおぼえればいいと私は考えているのですが、正しく読めるにもかかわらず自分で読もうとしないのは、間違ったことを口にするのを嫌がるからです。

 

「間違ったことを言うと周りの人たちから笑われそうで恥ずかしいから」

なのか、それとも学校や塾で間違ったことを言うと「こんなことも分からないのか!」と叱られるからなのでしょうか。間違えることを避けたがる生徒が多いのが気になります。しかもさらに悪いことに、答だけはすぐに知りたがるのです。

 

受験テクニックの一つとして、「なぜそうなるのかは分からなくていい。とにかくこう聞かれたら、こう答えろ」と丸暗記させるような難問奇問に対する対処法も存在します。しかしそれは難問奇問に対する場合であり、本当に大切なことは正解にたどりつくまでの考えの道筋で、極端な言い方をすれば正しい方向で考えてさえいれば答えが間違っていたってかまわないと、私は考えています。(もちろん入試では許されませんが

 

答の丸暗記では応用が効かず、また同じような問題に出会ったときには、当然正解にたどり着けません。けれど考え方が正しければ、次回は正しい答えにたどりつくことができるはずです。

自分の力で考えて、自分で答をみつけていくことこそが、力をつけていく最良の方法だと私は考えていますので、クラスで答をそのまま教えるということはまずありません。そのかわり、ヒントはいろいろな角度から与え、生徒たちが試行錯誤しながら、正しい答に近づいていくのを私は気長に待っているのです。

 

幸い、このスペックに1年以上通ってきている生徒たちは、そういった私の考えを理解してくれており、とにもかくにも自分が今考えていることを口にして正解への糸口となるヒントをもらうのですが、そういうやり方に慣れていない生徒は大変時間がかかります。

 

わからない問題にぶつかって、自分が今考えていることを私にぶつけてみるこということがなかなかできないのです。数学的な発想なら必ず1+1は2になりますので、自分であれやこれやとやっているうちに正解にたどりつくことができることも多いのですが、英語は日本語とは根本的に言語の構造が違います。日本語の発想法でいくら考えたって、正解にはたどりつきません。

 

さて、自分考えていることをぶつけてみることができない生徒が何をしているのかというと一生懸命に考えている場合はそれほど多くはありません。

どこを見るということもなく文法書のページをパラパラとめくったり、ノートになにやら書いてみたりして時間をつぶしています。おそらく学校ではいろいろやったフリをしてから「努力したけれどそれでもわかりませんでした。」といえば許されてしまうことが多いのでしょう。決まった時間の中でカリキュラムをこなさなければならない学校では、時間内にわからなかったら、正解を教えて終わりにしなければなりません。けれどこの教室では自分で動かない限り、正解にはたどり着けません。

 

 

困難な問題にぶち当たったとき、どうすれば突破できるのか、どこに解法があるのか、誰にヒントをもらえれば答えが見つかるのかを探す力をつけていかないと、社会に出たときに役にたつ人間にはなれません。英語を学びつつ、そんな人間力をつけてやりたいと心の底から思っています。

スペック通信 12月

コロナ禍のため、様々な業種で大変苦労している人々が多いのだろうと思います。一刻もはやくコロナのパンデミックが終息してほしいと願うばかりです。先日そんな旅行業界で働いていた友人と話をする機会があったのですが、昔、彼が現役で海外旅行の添乗員をしていた頃の話を思い出しました。

 

彼はツアーに出発するときには、スーツケースに大量のお米、梅干し、海苔を詰め込むのだそうです。とりたてて彼が和食好きだからというわけではなく、10日間や2週間のヨーロッパツアーなどの客は、比較的年配の方たちが多いのだそうです。そのため旅行の間にどうしてもご飯が食べたいという要望が出ることが多く、それに応えるためにサービスとして持っていくというのです。ホテルの厨房で鍋を借り、おにぎりを作ってあげるのだそうですが、その話を聞いて、私はこれは過剰サービスだと思いました。

 

せっかく外国へ行くのですから、その国の料理や習慣、考え方や生活に触れるのが楽しいのであって、何も外国に日本を持ち込むことはないと思うのです。いろいろな考え方があって当然なのですが、海外旅行の楽しみの一つは、違った文化や考え方に触れて、自分の日本的なものの見方とのギャップを経験することが面白いのだと私は考えています。ヨーロッパの世界遺産を見たいのなら、自宅のリビングに100インチのホームプロジェクターを設置すれば、モンサンミッシェルであろうが、ノイシュバンシュタイン城であろうが、好きな時に何度でも訪れることができるのですから。

 

考え方のギャップといえば、私には忘れられない経験があります。シカゴで1週間ほど過ごした時にこんなことがありました。シカゴにはループと呼ばれる高架鉄道が街の中心部をぐるっと環状に走っていて、その環から各方面にしっぽの路線が出ています。郊外から来る電車はいったん、ループの路線に入り、その後終点となる駅へ向かって別のしっぽの路線に入っていくのです。

 

その高架鉄道を見たときに、私が子供の頃に好きだったバージニア・バートンの「ちいさいおうち」という絵本の世界に飛び込んだようで懐かしく、うれしかったのですが、その1週間のうちに私は2回もその高架鉄道で失敗することになりました。

 

1回目はメジャーリーグの野球を見ようと、シカゴ・カブスのリグレー・フィールドまで電車に乗った時のことです。ループの中にはいろいろな方面に行く列車が走っていて、途中からしっぽの路線に分かれていきます。乗り間違えないようにちゃんと列車を選んで乗りました。ループを離れて15分か20分乗ったあたりでしょう。次の駅はリグレー・フィールドだと思って降りる準備をしてドアの前に立っていると、なんと電車はリグレー・フィールドの駅を通過していくではありませんか。アメリカの大都市の地下鉄や高架鉄道は、快速や各駅停車といった区別はなく、その代わりA列車、B列車という区別が多いようです。デューク・エリントンの「A列車でいこう」というジャズの名曲がありますが、その「A列車」の意味をこの時初めて知ることとなりました。

 

A列車が止まる駅、B列車が止まる駅、その両方の列車が止まる駅の区別があり、そうすることでほとんどの列車は一つおきの駅に止まることになり、各駅に止まるより時間が短縮できるのです。これこそが日本人的な考え方なのかもしれませんが、野球場には何万もの人が乗り降りするのだから、どちらの列車でも止まるのだろうと、ちゃんと停車することを確認しなかった私が悪いのですが、目的の野球場を目の前にしながら、その前を通り過ぎていくのはとてもみじめでした。

 

その数日後ループの駅で再び苦い経験をすることになります。今度はA列車、B列車ではないのですが、電車に乗ろうと改札口を通り過ぎようとしたちょうどその時、向こうから街の中心へ向かう電車が近づいてくるガタン・ゴトンという音が聞こえてきました。急いで階段を駆け上がると、ちょうど電車が滑り込んでくるところで、やれやれ間に合ったと思った瞬間、電車が向かい側のホームに滑り込んでいくではありませんか。日本では電車は車と同じで左側通行なのに対してアメリカの電車は右側通行だったための失敗でした。日本的な考え方が通じないという経験が私は大好きで、こんな失敗ができることこそ、国内旅行とは違う海外旅行の楽しみだと私は考えています。

 

 

英語を勉強することはけしてテストで良い点数を取るためではありません。君たちの目で世界を見、世界の人たちといろいろな話をできる楽しみのために英語を勉強してほしいと思っています。

スペック通信 11月

一人の生徒から「先生、supperdinnerは違うんですか?」という質問を受けました。教科書にはsupperで「夕食」、dinnerも「夕食」と書かれてあるというのです。これは教科書が間違っているわけでもありませんし、日本語の「夕食」と「晩ごはん」のように同じ意味だけれど2つの言葉があるわけでもありません。この二つの言葉ははっきりと意味が違います。

 

実は「supper」は「breakfast」(朝食)や「lunch(昼食)に対する言葉で、夕方以降に食べる食事のことです。ところが「dinner」は「一日のうちで一番大きな食事」を意味します。 な~んだ、それならやっぱり「dinner」は夕食じゃないか、という〇〇君の「つっこみ」が聞こえてきそうな気がします。

 

日本人はほとんどの人が一日で一番大きな食事は「夕食」だと考えるのではないでしょうか。 けれど世界中には夕食が一日で一番大きな食事だとは考えない国や文化がたくさんあります。 一日に2食しか食べない文化もあるでしょうし、夜に大きな食事をするのではなく、お昼にたくさん食べる習慣もたくさんあります。

 

実は私も「supper」と「dinner」は同じものだと考えていた一人でした。

ところがもう30年以上前のことですが、ホームステイの生徒たちを引率して毎年夏にアメリカに行っていたとき、その常識を覆されることになりました。

 

ある年、アメリカのノースダコタ州に30数人の中・高生を連れて行きました。

ノースダコタ州はアメリカの中央部のカナダと国境を接している州で、主な産業は農業で、見渡す限りに小麦畑や牧場が広がっている州です。

都市部の人々は会社や工場で働いていましたので、夕食に一番大きな食事を食べていたのですが、農場ではそうではありませんでした。

 

ぜひともアメリカの農場での生活を経験してみたいと思い、知り合いに頼んで農場に一週間滞在させてもらったときのことです。ロビンソン村のスバート農場で農作業の手伝いをさせてもらうことになりました。スバート一家は牛を飼育する一方、小麦畑も持っていて、夏のはじめはちょうど小麦の収穫が終わった時期で、比較的仕事は忙しくなかったのですが、牛の世話をしたり、何kmにもわたる牧場の柵を見回り、壊れかかっている柵を修理したり、が仕事でした。

 

そのスバート農場に初めて到着したのは夕方でしたが、挨拶もそこそこに、「ランチを待っていたよ」といわれ、「?ランチ?」と(いぶか)しく思いました。

サンドイッチとコーヒーだけの夕食を終えると、次の朝はコーンフレークに牛乳の朝食のみ。こんな食事でどうして190cmちかいあんなに大きな体になるんだろうと思いながら、牧場にでかけて仕事をし、お昼に家に帰ると、ステーキとスープ、野菜の「大きな食事」が待っていました。

 

朝早く、夜眠るのも早い農場では「dinner」はお昼に食べるのが当たり前でした。牛を追い立てたり、羊の毛を刈ったり、ひんぱんに牧場で見かけるプレーリードッグをライフルで撃ったりの一週間は私の人生観を大きく変えることとなりました。プレーリードッグは動物園で見るとかわいいのですが、プレーリードッグは草原に巣穴を掘ってくらしています。その穴に牛が足をつっこんで、骨を折ってしまうと、その牛は殺さなくてはなりません。一頭、日本円で数十万円もする牛を殺すのですから、農場の人たちにとって、プレーリードッグは悪魔の動物だったのです。私も一度だけでしたが、20mほど向こうのプレーリードッグにライフルを向けて撃ったことがありますが、近づいて確かめたものの死骸は見つかりませんでした。残念だったような、よかったと安堵したような感情はいまでもはっきりと覚えています。